携帯用の箸がほしいなぁ。と、なんとなく思っていた時期があって最近またほしい気分が湧き上がってきていたのだけど、なんとまぁ箸をいただいく。しかも同居人の分まで。もっと書くと私の好みをわかってるなぁ・・・すげぇよなぁ。と関心してしまう箸だったのでした。郵送で来たのだけど、くださった方のお宅でも愛用されている箸で、とても気に入っているからぜひ使ってください。といういかにも送り主さんのお人柄を感じる字でしたためられた手紙が入っており、手紙っていいわぁ。と何度も読み返す。
私は昔はたいへんな筆まめで週に何通も(ときには十通以上)手紙を書いていたけれど、この頃は季節の挨拶状と正式なお礼状以外はほとんどがメールにすりかわりました。数はたいして変わっていないと思うけれど。数は変わっていなくても手間という点では手紙の方がずっと時間を取られます。受取る方が喜んでくれそうな(または私がどうしても使いたい)便箋や葉書をえらび、手元にあれば切手の柄もえらび、使用する筆記具も重要。ポストまで行って・・・。私はそういうのは苦にならないどころか大好きなのだけど、大好きでもメールの早さや便利さも好きなのでメールも多用しています。
メールって便利でいいわぁ!と思う時もあれば、手紙っていいなぁ!と思う時もある。ってだけのことといえばそうだけど、手紙っていいなぁ!と感じる時は心が満たされ幸せな気分になるいいなぁ。なのですよね。手紙の良さを感じる時、私はある詩を思い出します。手紙さんよくぞ遠路はるばるお越しくださいました。ま、お茶でも飲んで一服してくださいよ。それからお話を聞きましょう(手紙を読みましょう)という感じの詩なのです。見事だよねぇ。
日本で電話がまだ普及していない。けれども一部の人は電話を使用していた時代、伝達手段といえば手紙が主流で、相手の家に伺う時には手紙で伝えるか、直接行くかのどちらかだったようです。例外もあったでしょうけれど・・・。手紙の場合時には何度もやりとりをして日時を決めとても時間のかかる*1ものだったとか。相手の都合をたしかめず直接伺う場合は相手がいれば大ラッキーくらいの感覚で、いなければまた出直す。会えないことを前提に訪問する。だったそうな。これは今でも子供同士の遊びの約束や、突然○○ちゃんと遊びたくなって来ちゃった。に通ずる感覚ではないかと私は想像しています。
私が生まれた時には電話は一般的だったし、手紙を何度もやりとりして数ヶ月のちの約束をするなんてことは(こんなに筆まめでも)あまり記憶にないけれど(ちょっとは記憶にあるし、今でもたまにそういうことはする)手紙は私の知らない時代の名残を不思議と私に感じさせるのです。
今回くださった手紙を読んで、そういうことを感じる。ポストの中に手書きで私宛の手紙が入っているのを発見する幸せ!さっそくその方がお好きそうな葉書を用意して返事を書いたけれど、書きたいことがいっぱいすぎて困る。はじめはそれなりに大きな字なのに、だんだんと小さくなって、しまいには書ききれなくなり「裏へ続く」など注意書きをし、宛名部分も真っ黒になったのでした。たぶん最後の方は読めないと思う。
この頃おそるおそる右手右腕を使うことをしだすと、とたんに痛みと痺れがでてプルプル震えだしゾッ〜とする。日常生活とは少々違う使い方(神経集中させて腕を固定しなくてはいけないとか、長時間一定の力をいれなければいけないとか)をすると短時間で急激に負担がかかることを実感。今年は首に筋肉をつけることを目標にがんばってきた(つもり)だけど、体はなかなかいうことを聞いてくれないねぇ。いったんこれがはじまると、包丁やハサミを持つのが怖くなる*2のでやっかいだと思う。もうちょっと悪化すると乗り物の振動が苦痛で徒歩圏内のみでの生活になってしまうので、用心しなくてはいかぬ。やべぇやべぇ。

*1:現代(住まいは兵庫県西宮市)を生きる私からみればやたらに時間のかかるもののように感じるけど、当時を生きた人にとってはいたって普通のことだったのでしょう。たぶん。

*2:急に力が抜けてポロッと落としてしまうから。